近いうちに死のうと思います
「#この1年の変化」
去年の今頃、4年働いていた会社を辞めました。
正確に言うと去年の今頃、働けなくなり休職しています。
つまらない人生でした。
自分が何か特別な人間だと妄信して、お金のかかる大学に行き、資格を取ったりしましたが、就職活動に心が折れ適当な会社に就職しました。
思えば自分に甘い、自分を甘やかしすぎた人生でした。
幼少期から好きなことを好きなだけさせてもらいました。
親に、環境に甘えていました。
いじめられたり、いじめたり、クラスになじめなかったり、部活を楽しんだり、平凡な人生だったと思います。勉強はあまりできず、運動音痴でしたが、音楽や美術はできるほうだった、そんなオタクにありがちな学生生活でした。
就職先は、よくできた親から離れたくて関東からひとり関西に就職しました。
初めての一人暮らし、帰宅時間を気にしなくていい毎日、すこし悪がったり、不純なことをして自分に酔っていました。
就職して初めての夏、人生で初めての過呼吸を起こしました。
理由はキャパオーバー。どうしてできないのか、他人に、先輩に助けを求められなかった自分が悪いと思います。
就職先では部署に唯一の女性社員でした。入社当時トイレは共有で、私は生理などがひどく、胃腸も弱いトイレの民だったのですごくすごくつらかったことを覚えています。
女性だからお茶出し、女性だからお酌、女性だから気に入られている、女性だから、女性だから、最終的には女だから甘やかされている、というのが私の評価でした。
女性だから休みの日に夜中の飲み屋に呼び出されてホテルに連れていかれそうになったこともあります。女性だから、首元の空いた服やボディーラインの出る服を着てくると性的なからかいをされました。女性だから、デニムじゃなくてスカートをはいて出社すると華があっていいなぁと喜ばれました。
私は女性だから、我慢ができなくて感情的に当時の上司に相談をしました。
「お偉いさんの機嫌を損ねるな。そんなことでいちいち相談するな。」
と言われました。
二回目の過呼吸を起こしました。
このあたりから寝つきが悪くなり、心療内科に通うことになります。
だんだん睡眠薬の量が増え、勝手に涙が止まらなくなる日が増えました。
会社の迷惑だから、と言われました。心療内科に相談したらうつ病でしたが、抑うつ症状と診断してもらいました。理由は私がまだ若かったからだとおもいます。
うつの診断テストは毎年受けていますがこれ以上点数が上がらないところまで来ました。数学や社会のテストだったらよかったのに。満点だってよ。
それでも仕事をしていました。会社を辞めたら私みたいなメンタルが弱い人間を雇ってくれる会社はどこにもないと思っていたからです。再就職する気力も耐力もなかったし、自信もありませんでした。
なんだかんだでそんなこんなでごまかしごまかし4年間働いてきました。
4年目の夏、腹膜炎で高熱を出し会社から救急搬送されました。
卵巣の破裂でした。
もともと卵巣の腫れがあり、そこにストレスなどがかかったものだと思います。
生理の量も多くて、生理痛がひどいため生理休暇をとったり、痛みのひどいときは担当を一時的に変えてもらうように男の上司に頼みました。
相変わらず男の社員しかいなかったので女性的な相談はすべてその上司にしていました。
「こういうことを相談されることはセクハラだし、生理休暇は書いてあるだけで実際には無理」
と言われました。うつの薬が増えました。
「そんなに生理が辛いなら迷惑だから器具を入れて止めてくんない?」
と言われました。この二日後に三度目の過呼吸を起こしました。
とても悲しかったので、はずかしかったのですが、男の先輩に相談したら
役員会議にまで上がってしまいました。
結果は
「上司は会社に必要な人材だから折れてくれないか」
でした。
そんなもんなのか。と思いながら会社に行く準備をしていた去年の今頃、会社に近づくとどんどん眩暈が止まらなくなり立てなくなってしまいました。
パニックで会社に連絡したらアルバイトさんが迎えに来てくれましたが、動けなくなってしまったので救急搬送されました。アルバイトさん付き添いありがとうございます。
さて二回目の救急搬送です。
理由は心因性の眩暈でした。自分で立てなかったのでそのまま入院しました。
初めて一人でトイレに行けず、車いすで介護され扉のないトイレで見守られながら用を足しました。もうかける恥は全部かいたなあと思ったのを覚えています。
そして入院しながら、食事代わりの点滴を見ながら
【ちょっと人生をおやすみしよう】
と思い、退院したその日に会社の社長に退職か休職をしたいと申請して、結局休職にして今になります。
コロナがはじまったころ、私の休職生活もスタートしました。
いま一年がたちまして、環境もいろいろ変わりました。
まず休職手当だけだと生きていけないので引っ越しをして実家に帰ってきました。
お父さん、お母さん、娘は自立できませんでした。
引っ越しの際にお借りした資金も返せるかわかりません。
いつまでも金のかかる娘を許さなくていいです。ただうまく育てなくてすみません。
お父さん、お母さん、娘は親不孝者です。
親に逆らいたくてタトゥーを入れました。絶対にそれだけはするなと言われましたが入れました。多分まだ見つけていないでしょう。なるべく目立たないところに入れたので。
何に逆らいたかったのでしょうか。ただ男の人に負けたくない一心でタトゥーを入れたので、私は後悔していません。
あまりにも女性が性的に搾取されるので、わたしも身に流れを任せて、たくさんの人と遊びました。彼氏と呼べる存在の人には一人も出会えませんでしたが。
性行為の楽しさはわかりませんでしたが、私の体を見ることで、男の人が興奮するのを見ることで、私は少し救われた気がします。
失ったものはたくさんありましたが、ここでの男性経験は私の自己肯定感を高めてくれました。ギリギリ生きていられたのも彼らのおかげだと思います。必要とされている限り、人は生きていけるんだなって思いました。
実家に帰った後も、知らない男の人について行ったり、マッチングアプリなどで彼氏を探したりしました。まじめな交際につながりそうな出会いもたくさんありました。でも、わたしは結婚はできても、まじめな交際をするにあたって性行為をしたくないと思ってしまいました。矛盾です。
不純な出会いでの性行為はできました。男の人にお金を払って性的サービスを受けたこともあります。
でも幸せにはなれないなと思ってしまいました。どうしても男の人をちゃんと好きになれないのです。女性とお付き合いしてみようとも思いました。これが愛なのか好きなのかわかりませんでした。愛とか好きとか性行為や触れたいという行動がすべてあべこべなのです。
と好きになりたい人に伝えてみました
最初は泣いて抱きしめてくれました。
最初は優しく頭をなでてくれました。
最初は電話で相談を聞いてくれました。
好きと言ってくれたので私も好きと言えました。
交際が始まるのかと思いました。
「付き合うとかっていう枠に入れたくない」
と言われました。
よくわからなかったのですが、このまま連絡を取り合ったり会うことにしました。
私が飲食代を払うことが多くなりました。
ホテル代も、遊園地代も、出していました。
確かに男性が当たり前に出すというのが性差別だよなと思ったので出しました。
10万円貸してほしいといわれました。
断ったら怒って帰ってしまいました。
誕生日に8万円のプレゼントを要求されたので買いました。
クリスマスに2万円のプレゼントを送ったら2万円のプレゼントが返ってきました。
もうわからなくなってしまったので電話をしました。
「金払いのいい女の一人、金を払わなくていいから会う」
と返ってきました。
なんだか馬鹿らしくなりました。なにもかもが。男性という存在がわからないです。
関わりたくないわけではないです。後ろから抱きしめてくれるだけで安心します。
隣を歩くだけで気分が高揚します。好きって何なんでしょうね。何もかもどうでもよくなりました。
死にたいと言ったらお母さんは娘に死なれたら生きていけないといいます。
死ねなくなりました。私のお母さんとお父さんは素晴らしい人なので生きていてほしいです。
うつの薬は上限まで飲んでいます。睡眠薬もこれ以上増やせないといわれてしまいました。
会社を休職しても、大きく年上の男性を相手にするとパニック障害になります。
働けない、死ねない、恋をして子を成すこともできない、なにも、普通の人ができていることが何一つできない。
この一年、ずっと生きるためだけに生きてきました。
もうそろそろいいんじゃないかと、もうそろそろ死んでもいいのかなと思って生きてきました。
なので今日も生きますが、そろそろ死なせてください。何もできないんです。私。
そろそろ、そろそろ。